右って、どっちだっけ?
「右を説明してください。」
ある日、友人にそう言われたら、あなたはどう答えるだろうか。
僕ならたぶん、反射的にこう言う。
「お箸を持つ方!」
・・・うん、だいたい合ってる。
でも、すぐに頭をよぎるのは「いや、左利きの人は逆だよね」という冷静なツッコミ。
そう、僕の説明は**全員に通じる“正しい説明”ではない**のだ。
当たり前のように知っている「右」。
だけど、いざ説明しようとすると、これがなかなか難しい。
整体師として日々“身体の当たり前”を扱っている僕にとって、これはまさに職業病のようなテーマだった。
辞書で調べてはいけない「右」
「右とは何か?」
こうなるとつい辞書を引きたくなるのが人情だ。
広辞苑やデジタル大辞泉には、きっとこう書いてある。
「北を上にして東の方角。身体の正面を北に向けたとき、東にあたる側。」
・・・なるほど。
たしかに正しい。正確だ。でも、これを聞いて「右ってそういうことか!」と感動する人はいない。
なぜなら、人間は「右」を感覚的に知っているからだ。
説明するまでもない。
右手を上げろと言われれば、説明書がなくても上がる。
それほどまでに「右」は身体に刻まれた“当たり前”なのだ。
でも、この“当たり前”を言葉で説明しようとした瞬間、僕らは立ち止まる。
そして、気づく。
当たり前を当たり前と思っていたことの怖さに。
整体師の世界にもある「右の当たり前」
整体の世界にも、「右の法則」「左の流れ」「身体はこう動くもの」といった“常識”がいくつもある。
– 骨盤は右が上がると左肩が下がる
– 右利きの人は右側が固まりやすい
– 背骨は右回旋のクセがつきやすい
などなど。
どれも臨床経験から生まれた貴重な知見ではある。
しかし、それが「常識」として扱われた瞬間に、僕らの思考は止まる。
考えなくても“分かった気になる”からだ。
でも、患者さんの身体は辞書のように整然としてはいない。
右肩が上がっているからといって、原因が右にあるとは限らない。
右を治したら左が痛くなることもある。
右と左の境界線は、**身体の中ではけっこう曖昧**なのだ。
整体師として一番怖いのは、「当たり前」を信じすぎてしまうこと。
それが説明の省略や観察の怠慢を生む。
「右が悪いですね」で終わらせてしまうのは、患者さんへの冒涜だ。
「右」を説明する練習は、「患者さんに説明する練習」だ
整体師にとって“説明”は治療の一部だ。
患者さんに今の身体の状態を伝える。
なぜ痛いのか、どう動かせば良いのかを説明する。
それがうまく伝わらないと、どんなに上手に手を当てても、信頼は生まれない。
だから僕は、自分への課題として**「右を説明する」練習**をしてみた。
辞書を使わずに、右を、誰にでも伝わるように。
たとえば、こう言ってみる。
「右というのはね、心臓のない方。」
・・・いや、心臓が真ん中寄りの人もいる。
「右は太陽が昇る方」も、場所によっては違う。
「右は手が強い方」も、左利きの人には通じない。
僕は混乱した。
当たり前だと思っていた「右」さえ、説明できない。
でもこの混乱こそ、整体師としての“学びの瞬間”なのだ。
身体の中の「右」と「左」
人間の身体は左右対称に見えるが、実際はかなり**非対称**だ。
– 心臓は左寄り
– 肝臓は右側
– 右肺は三葉、左肺は二葉
– 右脳と左脳は働きが違う
身体の中では「右」と「左」が、まったく違う役割を担っている。
つまり、右手を動かすとき、僕たちは**左脳の命令**を使っているのだ。
「右を動かすこと」は「左を使うこと」。
なんだか哲学的だ。
整体的に見ても、右側の筋肉が張るとき、その原因は左の足にあることも多い。
人間の身体は、「右」と「左」を**対立ではなく調和**で成り立たせている。
右往左往の哲学
「右」という言葉の面白いところは、すぐに「左」が出てくることだ。
右を語るとき、必ず左が隣にいる。
右だけでは存在できない。
右往左往という言葉がある。
「右に行ったり左に行ったりして落ち着かない」状態を指す。
でも整体的に考えれば、人間は右往左往してこそバランスを取っているのかもしれない。
左右に揺れながら、立ち、歩き、進んでいく。
つまり、右往左往こそ生きるリズムなのだ。
当たり前を当たり前にしない勇気
「右を説明する」という遊びは、整体師としての僕にとって大切な訓練になった。
なぜなら、説明できない当たり前を放っておくことが、最も危険だからだ。
– 「骨盤の歪み」って何?
– 「姿勢が悪い」って、どこがどう悪い?
– 「バランスが崩れてる」って、どんな状態?
患者さんにこう問われたとき、僕はいつもドキッとする。
そして、そのたびに思うのだ。
「右を説明できない整体師に、姿勢を説明する資格はない。」
簡単なことを簡単に説明する難しさ
人間は、難しいことを難しく話すのは得意だ。
専門用語を並べれば、それっぽく見える。
でも、患者さんの多くが求めているのはそうじゃない。
– 「なんで痛いのか」
– 「どうすれば良くなるのか」
– 「自分でできることはあるのか」
この3つを、誰にでも分かる言葉で伝えること。
それが本当の意味での“説明力”だ。
右を説明する練習は、その第一歩だ。
だって、「右」を説明できるなら、「健康」だって「痛み」だって、もっと分かりやすく説明できるはずだから。
右という言葉のもうひとつの意味
ところで、日本語の「右」にはもう一つ面白い側面がある。
それは「正しい」「優れている」というニュアンスだ。
– 右腕(頼れる存在)
– 右に出る者がいない(最も優れている)
– 右肩上がり(好調)
右は、いつの間にか「善」や「正」の象徴になっている。
でも整体の世界では、右が強すぎるとバランスが崩れる。
右肩上がりの姿勢は、左足に負担をかける。
つまり、「右ばかりに偏る」のも健康ではない。
“正しい”を信じすぎると、身体は歪む。
これもまた、整体師としての真理かもしれない。
右を考えることは、自分を見直すこと
「右を説明してみよう」と思ったその瞬間から、僕は自分自身を見つめ直していたのかもしれない。
何気ない言葉の中に、「考える力」と「伝える力」が詰まっている。
そして、それを磨くことが、結果的に治療にも繋がっていく。
もしあなたが整体師なら、今日の施術のあとに少しだけ考えてみてほしい。
「右を説明できる自分でいたいか?」
それができたら、あなたの“説明”はきっともっと伝わる。
あなたの“手”はもっと優しくなる。
あなたの“治療”はもっと深く届く。
右を説明するということは、生き方を説明すること
右を説明する――それは単なる言葉遊びじゃない。
当たり前を疑い、伝える努力を怠らないという**生き方の姿勢**だ。
整体師として、治療家として、人として。
僕らは常に「右」を見ながら、「左」も忘れずに歩いていく。
右往左往しながらも、前へ進む。
その一歩が、きっと「正しい(右)方向」へと導いてくれる。
でもそれは辞書には載っていない。
あなた自身の身体が教えてくれる“右”だ。
Ezyri整体ブログ:右を説明してみたら人生が整った話
当たり前を当たり前にしない。それが、整体師の右の心得。









